佐藤さんは、自他ともに認める「器用な男」でした。日用品の修理から日曜大工まで、身の回りのトラブルは大概自力で解決してきました。そんな彼がある日、仕事帰りに家の鍵を会社に忘れてきたことに気づきました。時刻は深夜。会社まで戻るには往復で二時間はかかります。佐藤さんはふと、昔、インターネットの隅っこで見かけた噂を思い出しました。「一円玉を鍵穴の隙間に沿ってスライドさせれば、デッドボルトの隙間に干渉してドアが開く」というものです。今考えれば、それは玄関ドアではなく、旧式の窓のクレセント錠や、建付けの悪い古い引き戸でのみ成立するかもしれない奇策でした。しかし、その時の佐藤さんは妙な自信に満ちていました。財布から一枚の一円玉を取り出し、彼は玄関ドアの隙間にそれを差し込もうとしました。ドアと枠の間のわずかな隙間に一円玉を潜り込ませ、内部の金属部分を動かそうと悪戦苦闘しました。何度も一円玉を滑らせているうちに、彼はあることに気づきました。一円玉が少しずつ削れ、その破片が隙間に溜まっているのです。アルミニウムは柔らかく、スチール製のドアや枠と擦れることで簡単に摩耗していきます。しかし佐藤さんは、手応えがあったと勘違いし、さらに力を込めて一円玉を押し込みました。すると、次の瞬間、パキッという嫌な音が響きました。一円玉がドアの隙間で二つに折れ、破片が内部の奥深くに詰まってしまったのです。折れた一円玉を取り出すことはできず、さらに悪いことに、その破片がドアの開閉を妨げるラッチの部分に挟まってしまいました。もともとは鍵を忘れただけだったのが、今やドアの機構そのものが物理的にロックされてしまったのです。佐藤さんは観念して、深夜料金を覚悟で鍵の専門業者を呼びました。一時間後に現れた職人さんは、ドアの隙間に詰まった一円玉の破片を見て、深いため息をつきました。「鍵を忘れただけなら、シリンダーのピッキングか非破壊解錠で数分で開いたんですが、これだけ破片が詰まっていると、ドアをバールでこじ開けるか、ラッチを切断するしかありません。修理代、高くつきますよ」と告げられました。結局、佐藤さんはその夜、解錠費用とドアの部品交換費用を合わせて八万円という授業料を支払うことになりました。一枚の一円玉をケチったばかりに、彼はその八万倍の代償を支払う羽目になったのです。彼は今、新しい鍵のキーホルダーに、あの日折れた一円玉のもう半分を戒めとして付けています。根拠のない裏技を過信することが、どれほど大きなリスクを伴うかを、彼は身をもって体験したのでした。